表現の自由の保障の中でも特に身近に感じるのが報道・取材の自由です。
大きな事件が起こり、被害者への取材でマスコミの取材の在り方はそのたびに議論になります。
報道とは事実を伝えることですがありのまま事実を伝えているのではありません。
この世界には無限の事実があり、その中の一部を送り手が切り取って(さらに編集して)伝えています。
そのため中立な報道というものは存在せず、必ず送り手による操作が加わっています。
どこを切り取って伝えるか、災害の被害状況、世界情勢、経済、芸能、それは送り手の思想が入っているということです。
思想を表現しているということなので当然報道の自由も憲法21条「表現の自由」の保障に含まれます。
送り手の意見を表明するということも理由の一つですが
報道は民主主義社会において、国民の知る権利に奉仕するものとして重要な意義をもつことも、理由の一つです。
昭和44年11.26「博多駅テレビフィルム提出命令事件」でははっきりと
「事実の報道は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもない」認められています。
では報道の自由、つまり国民に向けて事実を発信する自由は保障されているならば
取材の自由も保障されているといえるでしょうか。
これは憲法上保障されているとは断言されていません。
ただし「憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値する」とされています。
報道はいろんな段階を経て完成されます。
具体的には取材、編集、発表という一連の行為で成立するので、取材の自由は報道にとって不可欠の前提となるものです。
しかし、近年特に人権侵害ともとれる取材や報道が横行しているといっていいでしょう。
もちろんそれに随時賛同する国民性が前提にありますが、これらは今後規制されていくべきと思います。
さて取材と報道の自由とありますが、実際にはプライバシーに深くかかわることも多く
その情報源は秘匿性の高いものがほとんどです。
それこそ情報提供者からすると、その情報を公開する代わりに、情報提供者であるのは私だということは隠してほしいということはあるはずです。
もしこのような情報提供者の希望に反して、情報源も公開したとなると情報提供者の立場が危うくなるのはもちろん
今後積極的に情報を提供しようという人はまずいなくなります。
それはつまり報道の自由の先にある国民の知る権利に影響が及びます。
将来にわたる円滑な取材活動が妨げられる。と判例でいわれました通りのことです。
ですがこの取材源秘匿権もいつでも行使できるわけではありません。
それは裁判となったときにや捜査機関(警察)が適正迅速な捜査の遂行のために必要となるときです。
そして裁判と刑事裁判のときか民事裁判のときかで変わってきます。
まず刑事裁判のときですが、これは刑事訴訟法149条に基づいた判断になります。
判例では記者のもっている情報源は公開しなくてならず、証言拒絶権(取材源秘匿の自由)は保障されていません。
刑事訴訟法149条
医師、歯科医師、助産師、看護師、弁護士(外国法事務弁護士を含む)、弁理士、公証人、宗教の職に在る者又はこれらの職に在った者は、業務上委託を受けたため知り得た事実で他人の秘密に関するものについては、証言を拒むことができる。但し、本人が承諾した場合、証言の拒絶が被告人のためのみにする権利の濫用と認められる場合(被告人が本人である場合を除く。)その他裁判所の規則で定める事由がある場合は、この限りではない。
どうでしょうか。ここに記者は含まれていません。
それはつまり記者には知り得た情報の秘匿権がないということです。裁判所から命じられたときは必ず証言しなければならないことになります。
しかしこれには批判もあります。
憲法ではこのような限定列挙はされておらず、自由を保障しているのみです。
そして刑事訴訟法で規定している法律は賛成多数によって自由に決めることができます。
この法律によって定められていることを限定列挙として類推適用を禁ずるということは、かつて大日本手国憲法が強いていた法律の留保と何らかわりません。
法律によって人々の人権を簡単に制限できてしまうのであれば、憲法で保障している意味がないでしょう。
さて民事についてですが、これは利益を比較衡量することによって判断されます。
(刑事訴訟においてもこうあるべきと思いますが)
民事訴訟法197条が問題となりますがいわゆる職業の秘密(公開されると職業に深刻な影響を与える)かどうか、保護に値する秘密かどうかで判断されます。
これらを比較衡量されて裁判所によって判断されますが
平成18年10.3「NHK取材源秘匿事件」
では上記のような比較衡量によって取材源に係る証言の拒絶を認められました。
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